文章を書く難しさ

なぜ我々は(年老いた僕だけかぁ)、頭の中には明確に存在するはずの思いを、いざ文字にしようとすると、途端に筆(最近ではキーボード)が鈍るのだろうか。

大昔より「言文一致」は理想とされながら、現実には思考の速度と文章化の速度との間には、常に絶望的な乖離が存在する。例えば、科学者が長年の研究の成果を論文にまとめる際、その深遠な知見を平易な言葉で正確に、かつ、読者の理解を促す順序で配列する作業は、実験そのものにも劣らぬ苦難を伴うだろうと思う。これは単なる語彙の不足ではなく、概念をコード化し、それを再び読み手がデコード(復号)しやすい形式に変換する、高度な「情報の構造化」の困難さに他ならないからだと思う。

しかし、この「書けない苦しみ」は、本当に文章力の欠如に帰せられるべきものなのだろうか。むしろ、我々凡人が文章を書けないと嘆いているのは、自らの思考がいかに未熟で、論理がいかに脆弱であるかを白日の下にさらしているようなものだ。書くことの難しさは、実は「書き方の難しさ」ではなく、「考え方の難しさ」言い換えれば分かりやすい。

「文章は、思考の器であると同時に、思考を鍛え上げる砥石である。この難路を避けては、真の洞察は生まれない。」二人のノーベル賞受賞者のスピーチを聞きながら、高校のときの国語の先生が言ったこんな言葉をふっと思い出した。

余談:かっこつけて書いたが、実は今、歌詞を生み出すという作業に苦しんでいている。愛だの恋だのとラブソングが書けないのは、高齢者特有の気恥ずかしさからくるもんなんだろうな、きっと。

WOWOWでこの4Kレストア版が放映されていた。ビートルズといい驚くばかりの昨今の映像テクノロジーだ。

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